物言わぬcomma

Almost anything you do will be insignificant, but you must do it. We do these things not to change the world, but so that the world will not change us.

何かを支持すること、あるいは自己正当化という歪んだ眼鏡

コロナウイルスが日本を襲い始めてから数ヶ月がたち、コロナウイルスに対応する各都道府県の知事について様々な報道がなされている。今回は、この各知事のコロナウイルスへの対応に関するSNS上での多くの人の反応に接して感じたことについて述べたい。特定の都道府県の特定の知事(あるいは政党)を支持する(あるいは支持しない)ことに対する批判を行うつもりはない。そのため、なるべく一般化した形で議論を行いたい。
 
まず、多くの人が共有している(と信じたい)大前提について確認しよう。我々は、コロナウイルスの感染者、死亡者数が少なくなること、コロナウイルスが社会に対してもたらした悪影響を一刻も早く取り除き、これまでと同じ生活を送ること、これを望んでいるはずである。この我々の共通の願いをXとしよう。
 
この共通の願いXを達成するために、各都道府県の知事、与党、野党が存在するわけである。そして、コロナ禍以前から多くの人には自分が支持する知事、政党が存在する。仮に、この様々な知事、政党の中の2つをAとBとしよう。Aを支持する人は、Aなら共通の願いXを達成してくれるはずだ、Bを支持する人は、Bなら共通の願いXを達成してくれるはずだと考える。このように、多くの人は共通の願いXを自分が支持するAやBに仮託する。
 
共通の願いXを達成するという本来の願いのもとでは、AとBのどちらを信じているかに関わらず、共通の願いXに近づく事実に対しては好ましいと感じ、共通の願いXから遠ざかる事実に対しては好ましくないと感じるはずである。それにもかかわらず、SNSでは多くの人が共通の願いXを忘れたかのような振る舞いを見せているように思える。
 
仮にAを知事、与党、Bを野党としよう。Aを支持する人は、共通の願いXを達成するためにまったく不必要な政策が行われ、Xから遠ざかっていることが自明であるにも関わらず、Aが行ったという理由だけでその政策を称賛する。Bを支持する人は、自分が支持していないという理由でAの失策、さらには感染者数や死亡者数が増えることを望み、本来の願いXとはかけ離れた状況になることを望む。なぜだろうか? 我々は共通の願いXを実現するために、AとBを支持しているのではなかったのか?実に不可思議な状況である。
 
この不可思議な状況について考えるカギとなるのが、「何かを支持している(支持していない)自分の正しさを証明したい」という人間の欲望である。Bを支持せずにAを支持している自分は正しい、Aを支持せずにBを支持している自分が正しい、こう考えるのである。するとどうなるか。 本来、共通の目的Xを達成するためにAやBを信じていたにも関わらず、AやBを信じている自分を正当化するという欲望によって歪んだ眼鏡をかけて世界を見ることになる。Aを信じているのならBが間違うことを望み、Aを不必要に称賛する。Bを信じているのならAが間違うことを望み、Bを不必要に称賛する。それが、たとえ本来の目的Xとはかけ離れた状況につながるとしても。
 
一般に、何かを支持すること、信じることは、その何かによって人の心に平穏をもたらし、幸せにつながる(はずである)。また、何かを信じることでこれまでとは違った形で世界が見える。「何かを信じる」という眼鏡をかけることで、世界がよく見えるようになるのだ。しかし、「何かを信じている自分を正当化したい」という欲望にひとたび支配されると、その眼鏡は歪んだものになる。歪んだ眼鏡をかけて世界を見ていること自体を忘れてしまう。何かを支持すること、信じることを否定するつもりはない。だが、眼鏡をかけていることを自覚すること、眼鏡が歪んでいないか省察すること、眼鏡をいつでも取り外せること、あるいは普段とは異なる眼鏡をかけられること、これがコロナ禍の克服という共通の願いXが自明である今日において、必要とされる知性ではないのだろうか。

噛み合わない議論の構図:「医療崩壊」という言葉の定義

 

0. はじめに

 

ここ数日、愛知県の大村知事による東京と大阪に医療崩壊が起きているという発言がメディアを賑わせている。現在までの流れを整理すると次のようになる。

  1. 大村知事の会見内容が新聞で報道される
  2. Twiiter上で吉村府知事が反論する
  3. その反論に対して大村知事が会見でコメントする
  4. さらにTwitter上で吉村府知事が再反論する

この一連の流れを検証する過程で、「言葉の定義」が原因で起こる噛み合わない議論の構造を可視化したい。

 

  

1. 大村知事の会見内容の報道

 

ことの発端となった報道は、朝日新聞による以下の記事である。

 

まず、この記事が報じた26日の会見とは別に、大村知事はかねてより東京と大阪では医療崩壊が起きていると主張している。この記事の中では、11日に行われた会見の発言が引用されている*1

 


2020年5月11日 知事定例記者会見

 

この動画内で言えば、59分30秒あたりからが問題の発言である。大村知事は次のように述べる。

 

「もう何度も私申し上げていますけども、病院に入れないということと、それから救急を断る、というこの2つはやっぱり医療崩壊ですよ。それが東京と大阪で起きているわけですから。」

 この発言から、大村知事にとっての医療崩壊の定義は(1)であることが分かる。

 

(1) 大村知事の医療崩壊の定義

   a. 病院に入れないこと

   b. 救急を断ること

 

大村知事は(1) の定義による医療崩壊が起きているという問題意識のもと、前述した朝日新聞に記事にあるように、病院で受け入れ困難だった感染者数や救急件数の全国での検証の必要性を訴えたのである。

 

2. Twitter上での吉村知事の反論1

上掲の朝日新聞の記事に対して、吉村知事はTwitter上で以下のように反論を行った。

 

twitter.com

医療崩壊」と急に言われれば、このような反応をするのも当然だと思われる。ただし、この段階で吉村知事が朝日新聞の記事に記載されている「病院に入れない、救急を断るのは医療崩壊で東京と大阪で起きた」の箇所を参照したかどうかは不明である。

 

3. 吉村知事の反論1に対する大村知事の会見でのコメント

5月28日に、再び大村知事の会見が行われた。その際に、記者から上掲の吉村知事のTwitter上での発言について問われ、大村知事が返答した。これを報じたのが朝日新聞の次の記事である。

 

headlines.yahoo.co.jp

 

記事内での問題のコメントの箇所を引用する。

愛知県の大村秀章知事は28日の記者会見で、「東京と大阪で医療崩壊が起きている」という自身の発言に対し、大阪府知事大阪市長ツイッターで反発していることについて、「私は公表されたデータを拝見して申し上げただけ。違うというならデータをもって話すべきだ。そうでなければ、ただ単に言い訳しているに過ぎない」と述べた。

 次に、問題の会見の動画を引用する。

 


2020年5月28日 臨時知事記者会見

 

動画内でのこの問題に対するコメントは12:00 あたりからである。まず、大村知事の医療崩壊の定義のうち(1a)の部分の箇所に該当する発言を引用する。

やはり私は公表されているデータを拝見して申し上げただけですけれどもえー4月中ですか、国があの厚労省がまとめたもので出しておられますが、その時点の陽性患者数のうちですね、国があの頃 おられますがその時点の陽性患者数のうちですね、4月末でしたかね、半分ぐらいが入所施設に2百何十人も、900人ぐらいの患者さんで2百何十人が入所施設ですけども、自宅待機がまた2百何十人に上がられたということで入院という方が半分いるかいないか400人ぐらいだったですかね。ということなんでもそれはやはりもう病院にに入りきれていない。まぁ確かあれだけ吹き上がるとですね、それはあのなかなか難しいというのは分かるんですね。それもそういう意味では入院に入りきれていなかった東京も同じですよね。入りきれていなかったということと

厚労省が発表した4月中の入院患者数のデータをもとに、大阪や東京の状況は(1a)「病院に入れない」の定義による医療崩壊にあたると指摘している。

 

次に、大村知事の医療崩壊の定義のうち(1b)の部分の箇所に該当する発言を引用する。

救命救急センターというのがございます。第三次救急、愛知県は24、日本で一番多いのが東京に26、愛知24、2番目なんですが大阪16。そのうちのいくつかのまあ報道ベースですけど、四つの救命救急センター救急断ってるということもありました。私が申し上げてる、いつも前提つけてますよね、病院に入れていないということと、救急お断りするということはそれがそれはそれはやはりそういう状況を医療崩壊というんですよね。という私自身が前提を申し上げて間違いなく東京と大阪はそういう状態にあったということでありますので。それをしっかりとですね、事実関係を検証し分析して二度とそういう事ならないようにやっていたということが必要ではないかということを申し上げている。

報道記事をもとに、大阪では4つの救命救急センターが救急を断っていることを指摘し、(1b)「救急を断る」の定義による医療崩壊が大阪では起きていると指摘する。

この後、朝日新聞の記事にあるような「ただ単に言い訳」という発言が続く*2

ここまで見たように、大村知事は「何を根拠に行っているのか全く不明である」という吉村知事の指摘に対し、(1) で見た「病院に入れないこと」と「救急を断ること」という医療崩壊の定義に照らし合わせ、返答したわけである。

 

4. 吉村知事の反論 2と議論の噛み合わなさ

吉村知事は、3. で引用した朝日新聞の報道を受け、Twitter上で再反論を行った。以下、その引用である。

twitter.com

twitter.com

twitter.com

 

以上の引用が示すように、4つの救急センターの受け入れ停止から大阪では(1b)の定義による医療崩壊が起きていたとする大村知事の主張に対し、吉村知事は反論を行った。吉村知事の反論によれば、4月21日付けで大阪府全体で調整を行い、役割分担の結果4つの救急センターはコロナ重症患者の治療の為に一部救急停止を行ったものの、その他の病院でコロナ重症患者以外の患者を受け入れ、(重症者の)救急断りは起きていない。それゆえ、(1b) の「救急を断る」にあたる医療崩壊は起きていないのだと主張している。救急停止した病院はあるが、他の病院で対応しており、「停止はしたが断ってはいない」ということなのだろう。

 

ここで、若干議論が噛み合っていないように思える。それは、大村知事の医療崩壊の定義のうち、(1b)「救急を断る」にはいくつかの解釈が可能だからである。

  • (1b)の解釈①:受け入れ停止自体も「断る」に含まれる。
  • (1b)の解釈②:受け入れ停止自体は「断る」には含まれない。受け入れ停止していないのに受け入れないことが「断る」である。

もし大村知事が定義 (1b) の解釈①を意図しているのであれば、大阪府では医療崩壊が起きていたことになる。しかし、吉村知事にとってはこれは(少なくとも21日以降は)意図的に行っており、他の病院で受け入れを分担しているため、医療崩壊ではないと反論しているわけである。

定義 (1b) の解釈②を意図しているのであれば、前述した4つの救急センターでは医療崩壊は起きていないことになる。しかしこの場合、吉村知事は大阪府下の受け入れ停止をしていない救急センターでも救急断りが発生していなかったことをデータで示さなければ、医療崩壊が起きているという大村知事の主張に対して反証したとは言えない

大村知事がどちらの解釈を意図しているかは不明である。いずれにせよ、大村知事の「断る」の解釈の不明確さによって議論が噛み合っていないように感じられるのは確かである。

 

また、意図的であるかは不明だが、吉村知事は大村知事の(1a) の定義に基づく医療崩壊の指摘に関しては反論を行っていない。引用したツイート①において、「確認した」と吉村知事は述べているが、(1a) について確認しなかったのであろうか。大村知事は吉村知事の反論 1に対して、(1a) と (1b) の観点から医療崩壊が起きていると述べたわけなので、 (1b) だけでなく (1a) の観点からも反論すべきである。この点でも両者の議論は噛み合っていない。2つの観点について大村知事は述べているのに、(意図的かは別として)1つの観点に限定した点は、アンフェアである。

 

4. 吉村知事の反論2の検証

次に、吉村知事の反論の検証を行いたい。大村知事が報道ベースで、と述べた大阪府の4つの救急センター受け入れ停止に関する様々な記事が見つかる。この記事をもとに、(1b) の「救急を断る」にあたる医療崩壊は起きていないとする吉村知事の主張の妥当性を確認していく。

 

www.jiji.com

 

この記事内では、救急を断ったとする事実は記載されていない。ただし、以下の引用が示すように、りんくう総合医療センターが6日から救急外来停止とあるので、4月7日から開始したとする吉村知事の発言と齟齬が生じている。

毎日30人以上が救急搬送される大阪市総合医療センター(1063床)も、7日から救急外来を停止。泉佐野市のりんくう総合医療センター(388床)は6日から停止し、堺市総合医療センター(487床)は9日から軽症者の救急診療を休止した。

また、最速で4月6日から第3次救急センターの救急受け入れ停止がはじまっているが、センター長会議が行われたのは4月21日である。この間にも、吉村知事が言う役割分担が適切に行われていたかを検証しなければならない。4月21日以降は役割分担が明確になったのかもしれないが、4月6日から4月20日までの間はそうでなかった可能性があるからである。この点でも、吉村知事は大村知事の主張を完全に反証したとは言えない
  

次に、Sankeibizの記事を紹介する。4月27日付けの記事である。


www.sankeibiz.jp

 

この記事では、大阪大病院の高度救命救急センター長である嶋津岳士教授の発言が引用されている。

 

「崩壊」の背景にあるのは、患者の受け入れ先不足だ。発熱や呼吸器症状を訴える軽症患者らについて、本来対応できる病院が感染を疑って診療を断るケースが多発。阪大病院など重症者の治療に注力すべき三次救急医療機関や受け入れ可能な病院に集中する事態となっている。

嶋津医師は「阪大病院にも、17病院が受け入れ拒否した肺炎疑い患者が運ばれてきた。救急車の行き先がなくなり、救命センターが診るほどの重症度でない患者も受け入れざるを得ない状態だ」と明かす。

 

嶋津医師の発言からも分かるように、17病院で受け入れ拒否、すなわち救急断りが起きていた。よって、大阪では大村知事の定義(1b)「救急断り」による医療崩壊が起きていたことになる。

 

ここで、吉村知事の反論2のTweetが問題になるかもしれない。以下、再掲する。

twitter.com

twitter.com

 

引用したツイート②では「救急を断る」と延べ、引用したツイート③では「重症者の救急断り」と述べている。これが意図的なものであるかはわからない。吉村知事が「救急断り」を「重症者の救急断り」に限定しているのなら、上述した阪大病院での事例は「重症者の救急断り」ではないため、吉村知事にとっては問題のある事例にはあたらないのかもしれない。しかし、大村知事は単に「救急を断る」と定義しているので、いずれにせよ大村知事の定義のもとでは大阪では医療崩壊が起きていたことになる。ここでも、吉村知事は大村知事の主張を反証したとは言えない

 

 4. 健全な議論のために

ここまで、大村知事と吉村知事の議論を検討し、議論が噛み合っていない点がいくつかあることを見てきた。その原因は主に、

  • 「大村知事の「医療崩壊」の定義が曖昧であること」

   (=(1b)の複数の解釈の可能性)

  • 「吉村知事の大村知事の「医療崩壊」の定義の確認不足」

           (=(1a)に対して反論しなかったこと)

 

である。「言葉の定義」が曖昧であること、あるいはその定義をきちんと確認しないことは、健全な議論を阻害する。意図的であるかは別にして、噛み合っていない議論が行われている。そのため、両者の主張のうちどちらが妥当であるかを判断することはできない。

さらに、今回の件は「そもそも大村知事の医療崩壊の定義が適切であるか」についても議論する必要がある。大村知事の医療崩壊の定義のもとでは、大阪に医療崩壊が起きていないことは完全には反証されていない。しかし、大村知事の定義そのものが不適切である可能性も残っている。

大阪で医療崩壊が実際に起きていたかは別にして、大村知事の「病院で受け入れ困難だった感染者数や救急件数の全国での検証の必要である」という主張自体は正当なものである。「医療崩壊」というセンセーショナルな言葉に惑わされ、新聞やワイドショーが両者の対立を煽るような報道をし、検証の必要性という最も大事な論点がうやむやになりつつあることが残念でならない。

 

 

 

*1:朝日新聞の見出しが恣意的ある感は否めない。

*2:ここでも朝日新聞の見出しは恣意的であるし、記事内でも大村知事の会見が不適切な切り取り方がなされていると言わざるをえない。

〇〇なんて意味がない:苦手なものへの反応の一形態

自分が苦手なものと出会ったときにどのような行動をとるだろうか? 努力して克服する、目を背ける、教えを請う、様々な解答が頭に浮かんだだろう。ここでは、従来は見過ごされがちな、「苦手なものの欠点を指摘する」という行動について考えてみたい。苦手だからといって、別に欠点を指摘する必要はないはずである。なぜ、このような行動をとるのだろうか?

 例えば、数学について考えてみよう。数学が苦手な人は多い。筆者自身もこれまで数学が苦手な人にたくさん出会ってきた。筆者の経験上、数学が苦手な人は決まってこう言う。「数学、例えば微積分や虚数なんか学んで何の意味があるのか?」、「数式のような無味乾燥なもので世界の成り立ちも人の心も言葉の意味も記述することはできない」、「数式を使い原子力を操作した成れの果てが福島の原発事故だ」などなど。これらの発言に共通しているのは、数学の欠点の指摘、言い換えれば自分が苦手なものの欠点の指摘である。

 なぜこのような発言、行動をするのだろうか? そのために、「苦手」という状態についてもう少し一般化して考えてみよう。「苦手」という状態は、「本来はできたほうがよいXできない」という状態である。このような状態の際、人間がとりうる行動は少なくとも2つある。1つ目は、上記の下線部②の状態を変更することである。具体的に言えば、「できない」を「できる」に変えるために様々な努力を行うことである。

 では、もう1つの行動は何であろうか?それは、上記の下線部①の状態を変更することである。ここに、「苦手なものの欠点を指摘する」という人間の行動の謎を解くカギがある。下線部①の状態「できたほうがよいX」を変更するには、Xの欠点をあげつらうことで、「そもそもXなんてできなくてよい」という状態を作ればよい。すると、「できる」状態に変わるために努力する必要がなくなる。数学の例に戻れば、数学の欠点をあげつらうことで数学なんて学ばなくてよいという状態を作ってしまえば、苦手な数学から逃げてもよいことになる。つまり、人は苦手なものの欠点を指摘することで、苦手を克服しなければならないという理由自体を消滅させるのである。これも、ある種の人間の防衛機能の一種なのかもしれない。

専門家と大衆と噛み合わない議論と私

数ヶ月前だろうか、近年急速に受講者数を増やしている大学受験生向け予備校の映像授業のCMが話題になった。CMという限られた時間の中で、リスニングのコツについて述べるものだった。具体的には、弱形と呼ばれる現象を扱ったものである。

このCMでの弱形の扱いに対し、同じ予備校業界の講師から、あるいは言語学を専門とする大学教員から疑問の声が上がった。いわく、学問的に見てCMの説明に問題があると。

ここから、噛み合わない議論が始まる。学問的な観点から、CMに出演している講師を擁護する意見、あるいはCM内での説明の学問的誤りを詳細に正し、嘘を教えていると指摘するもの。

そして、CMに出演している講師はこう言う。

  • 英語のできる先生からは支持されない嘘を教える人間だそうだが、いろいろな英語のプロから仕事をもらっている。土俵が違う。
  • この仕事は生徒に伝えることが仕事。この授業は役立つと信頼されるまでが仕事。それができなきゃ経営陣も評価するわけない。

この発言から次のことが読み取れる。CMに出演している講師と、CMの説明に疑義を投げかける側とでは目的が違うのだ。前者は、生徒から役立つと信頼される授業をし、たくさん集客をし、たくさんの仕事をもらって経営陣から評価されることが目的である。後者は、学問的に見た説明の適切さを問うことを目的としている。両者は議論をしているように見えるが、目的が異なるのである。

では、この議論において正しいのはどちらだろうか。客観的に見れば、嘘を教えるほうが正しくないのかもしれない。しかし、物事の正しさは目的を離れて議論することはできない。CMに出演している講師側は、学問的な正しさではなく、「生徒に役立つと信頼されるか(そしていかに集客するか)」を目的としている。その目的においては学問的な正しさよりも生徒へのわかりやすさが優先されるのである。よって、CMに出演している講師の目的においては学問的に正しくないことを教えるのは問題ではない*1*2

そして、(いつものように)「生徒をたくさん集めた、たくさん仕事をもらっている。だから正しい」vs. 「学問的に見て正しくない。嘘を教えている」というそれぞれの前提、目的が共有されていない水掛け論が始まるわけである。さらに、前者の背後には受験生時代にその講師にお世話になったたくさんの元受講生がいる。彼女ら、彼らは、お世話になった感謝の気持ちから(嘘を信じていたと信じたくない認知バイアスが相まって)前者を擁護するわけである。かくして、専門家は多勢に無勢、いつものように机上の空論を振りかざす象牙の塔の住人というレッテルを貼られ、あえなく退散するわけである。

このような議論の展開は、いたるところで見られる。そして多くの場合、CMに出演している講師側は「現場、民衆、大衆」という錦の御旗を手に入れ、専門家側は「非現場、逆賊、朝敵」というレッテルをはられるわけである。おそらく、このCMに出演している講師も、いわゆるポピュリズム政党に所属する政治家も、自覚的にこの議論の進め方をしているのだろう(PHP新書かSB新書から教科書が出ているのかもしれない)。残念なことに、この議論の進め方は無敵に近い。やれやれ。

 

 

*1:ここで学問的に正しくない、と筆者は言い切っている。弱形の説明についてはCMに出演している講師の説明に過剰般化、誤りがあることは(専門家から見れば)自明である。ただし、この誤りの指摘は講師側には届かない。そもそも両者の目的が異なり、「正しさ」の次元が異なるからである。

*2:ここで、間違いを教えると生徒の役に立たないからCMに出演している講師側が間違っているのでは、と思うかもしれない。もし「役に立つ」が「説明を聞いて、入試に出題される問題が解けるようになる」という意味なら対話が成立する。誤りを教えることは、生徒の誤答につながり「役に立たない」からである。しかし、講師側の目的が「役に立つの定義は何でもよく、とにかく役に立つと思わせて受講者数を増やすこと」であるなら対話は成立しない。講師側の「役に立つ」の定義が前者であることを切に願う。

授業料返還運動についてあれこれ

コロナウイルスが世界中に影響を及ぼし始め、もう数ヶ月がたとうとしている。そんな中、多くの大学の学生が中心となり、授業料返還を要望する署名活動が行われている。いくつかの署名活動の文面を読んだが、言いようのない違和感を覚えてしまった。その理由についてあれこれ考える中、なんとかその違和感を言葉にできそうになったので、ここに記録しておく。

本題に入る前に予め断っておく。コロナウイルスの影響により経済的に困窮している学生に一刻も早く援助が行われるべきである。授業料返還の必要性を否定するつもりもない。また、学生たちが主体的に声を上げ、署名活動を行うことを否定するつもりもない(むしろ、素晴らしいことである)。そして、私が目にした署名活動のための文面の執筆者の方を批判するつもりもない。この点、ご容赦願いたい。

私が目にした署名活動のための文面には、次のような言葉が並んでいた。特定の大学の特定の文面を批判する意図は無いので、適宜変更を加えてある。

  • 対面式を前提とした授業料に見合うだけの質が、オンライン形式では保証されていない。

対面式の際に得られるはずだった教育の質と、オンライン形式での教育の質の差を指摘し、その差額分の返還を要望する、これが大まか流れである(施設使用料、教育充実費等の問題についてはここでは議論しない)。

繰り返しになるが、このような要望を行うことを批判するつもりはない。しかし、言いようのない違和感を覚えたのである。その理由は、至るところで指摘されていることかもしれないが、教育の場に市場原理が巣食っていることがこの文面に如実に表れているからである。「しかじかの金額を支払ったのだから、それと同等の価値のあるものを要求する」のだ。

もちろん、大学運営が市場の中で行われることであり、それが資本主義社会の進展による当然の帰結であることを否定するつもりはない。また、このような言葉遣いをする学生たちを責めるつもりはない(幼いころからこういう世の中に生きてきた結果である)。

ただ、困っている学生が助けを求めるときでさえ、自然とこういった言葉遣いをすることに言いようのない恐怖、悲しさを感じるのである。いつから支援を求めることに正当化、理由付けが必要になったのだろうか。コロナウイルスによって経済的に困窮している学生に援助、支援を行うことに理由が必要なのだろうか。学生たちにこういう言葉遣いをさせてしまう世の中に生きるものの一人として、深く重い責任を感じる。