緑色の天井
今回は,「犬笛」と呼ばれる政治手法について考えてみたい.ネット上のコメントなどを見ていると,この用語も徐々に浸透してきているように思うが,最もわかりやすい紹介記事として以下のものを引用する.
この記事によれば,犬笛は以下のように定義される.
- 政治家が特定の有権者を意識して暗号のような表現を使い、「人心を操る」政治手法のことを、「犬笛」戦術と呼ぶ。
主に,アメリカ大統領選で話題になることが多い言葉である.恥ずかしながら,日本で暮らすなかで「犬笛」の存在を明確に意識することはなかった.しかし,数日前に少しだけ話題になった吉村大阪府知事の発言をめぐる経緯を見ている中で,自分のなかで「これが犬笛か」と実感した場面があった.本稿では,その点について述べたい.
吉村知事の発言
ことの発端は,吉村知事が大阪府における緊急事態宣言の発令要請にいたった経緯を説明する際のコメントを抜粋したデイリースポーツの以下の記事である.
感染者の数が急増したことを表すため,吉村知事は「ガラスの天井」の用語を使った.しかし,「ガラスの天井」には単に「ガラスでできた天井」という字義通りの意味の他に,別の意味がある.Wikipediaからの引用になってしまうが,概ね以下のような慣用句として定着している.
ガラスの天井(ガラスのてんじょう、英語: glass ceiling)とは、資質・実績があっても女性やマイノリティを一定の職位以上には昇進させようとしない組織内の障壁を指す[1][2] 。女性やマイノリティが実績を積んで昇進の階段をのぼってゆくと、ある段階で、目に見えないが強固な天井にぶつかったように昇進が停まってしまい先へ進めなくなる現象を「ガラスの障壁に阻まれている」様子にたとえた表現[3]。Wikipediaより引用
筆者も,Yahooのトップページで上記の記事の見出しを見た際に,慣用句としての意味が先に頭に浮かんだため,感染者数を話す文脈でなぜ?と思った.その後,おそらく「ガラスでできた天井」の字義通りの意味で使ったのだろうと考えた.
吉村知事に対する誤用の指摘
この吉村知事の「ガラスの天井」の発言に対して,誤用を指摘する声があがった.
感染が急拡大した事を認識したのはいいというか当然として「ガラスの天井」ってなんじゃそりゃ?です。
— 米山 隆一 (@RyuichiYoneyama) 2021年1月9日
「ガラスの天井」は主に女性のキャリアップに於いて、隠然と見えない上限があるという比喩であって、新型コロナ感染症の拡大とは何の関係もない訳ですが。https://t.co/zjRLpsUAZS
上記は元新潟県知事の米山氏である.この他にも多くの人が誤用ではないかという指摘をしているが,後の議論のために2名の方の発言を引用する.
う〜ん、吉村知事、このタイミングで「ガラスの天井」を引き合いにされるのには違和感が…。💦 https://t.co/5G2OUnlKNw
— 太田房江 (@fusaeoota) 2021年1月9日
元大阪府知事,現参議院議員の太田氏の発言である.次は,参議院議員の蓮舫氏の発言を引用する.
は?と思いました。
— 蓮舫@RENHO・立憲民主党 (@renho_sha) 2021年1月9日
「ガラスの天井」の意味間違ってます。
吉村知事 6日に大阪で560人感染「ガラスの天井を突き抜けた」…緊急宣言要請決める(デイリースポーツ) - Yahoo!ニュース https://t.co/mPcDY3JGgi
吉村府知事の反論
誤用の指摘に対して,吉村府知事は以下のように反論した.
蓮舫議員や太田議員が、「吉村が『ガラスの天井』を間違って使ってる!」と一生懸命だが、僕が役所内の「ガラスの天井」を打ち破る為に何をしてるのかも知らないんだろうな。その意味で使ってない。記者会見では、いつ割れてもおかしくない状態を「ガラス」に喩えただけ。会見の中身を見たら明らか。 https://t.co/7XjvHtz46E
— 吉村洋文(大阪府知事) (@hiroyoshimura) 2021年1月10日
なので、同じ記者会見で「ガラス」の比喩を使わず「天井」とだけ言ってるシーンもあり、記事にしたらこうなるのが普通。勿論、僕の言葉なので、僕に責任。ただ、引用されたスポーツ記事さんの内容を見ても国会議員なら分かるだろう。「ガラスの天井」を打ち破る政策には賛成。https://t.co/vzQmJUbc8a
— 吉村洋文(大阪府知事) (@hiroyoshimura) 2021年1月10日
以上が,吉村知事の反論である.なお,吉村知事の「ガラスの天井」の使い方がそもそも誤用なのかについては議論をしないでおく.
吉村知事の犬笛(らしきもの)
ここでは,吉村知事が,なぜ反論を行う際に太田氏と蓮舫氏を名指ししたのかについて考えたい.それも,わざわざ「一生懸命」という言葉をつけて,である.
前述したように,米山氏など,多くの(著名)人が誤用ではないかと指摘している.にもかかわらず,吉村知事は"わざわざ"太田氏と蓮舫氏を名指ししている.ここに,吉村知事の「狡猾さ」がにじみ出ている.
太田氏は,橋下徹氏が2008年に大阪府知事になる前の府知事である.維新の会やその支持者の人たちにとって,平松元市長と並び,「維新前の大阪」を象徴する政治家である.維新の会により成長した(とされる)大阪以前の,暗黒の大阪を象徴する存在なのである.それゆえ,大阪に住む維新の会の支持者は,上記の吉村知事の発言を見ると,「大阪を成長させられなかった太田氏が何を言っているんだ」となり,太田氏の発言内容は考慮せずに,太田氏を批判するという構図ができあがる.
蓮舫氏は,"野党的なもの"を代表する存在であり,ネット上では「いつも批判ばかりしている人」というイメージで批判されることが多い.それゆえ,「あ,また蓮舫氏が批判のための批判をしているのだな」と維新の会の支持者だけでなく,中立的な立場の人たちも感じることになる.こうして,蓮舫氏の発言内容は考慮されず,「また蓮舫氏がなにか言ってるよ」と蓮舫氏が批判される構図ができあがるわけである.
筆者は,上記の吉村氏の反論を見て,"狡猾"だなと感じた. また,冒頭で述べた「政治家が特定の有権者を意識して暗号のような表現を使い、「人心を操る」政治手法」,すなわち「犬笛」を思い出した*1. 実際,支持者の人たちの多くは,太田氏や蓮舫氏を批判するコメントを残しているようである.
以上,吉村知事の犬笛(らしきもの)について見てきた.ガラスの天井が誤用かどうかはさておき,上述したような狡猾さについては好ましいものではないだろう.
*1:ただ,あまりにもあからさますぎて「暗号のような表現」とは呼べないため,厳密には犬笛ではないのかもしれない. もう少しばれないように犬笛を吹けよ,という点では"狡猾"というより"滑稽"である.