専門家と大衆と噛み合わない議論と私
数ヶ月前だろうか、近年急速に受講者数を増やしている大学受験生向け予備校の映像授業のCMが話題になった。CMという限られた時間の中で、リスニングのコツについて述べるものだった。具体的には、弱形と呼ばれる現象を扱ったものである。
このCMでの弱形の扱いに対し、同じ予備校業界の講師から、あるいは言語学を専門とする大学教員から疑問の声が上がった。いわく、学問的に見てCMの説明に問題があると。
ここから、噛み合わない議論が始まる。学問的な観点から、CMに出演している講師を擁護する意見、あるいはCM内での説明の学問的誤りを詳細に正し、嘘を教えていると指摘するもの。
そして、CMに出演している講師はこう言う。
- 英語のできる先生からは支持されない嘘を教える人間だそうだが、いろいろな英語のプロから仕事をもらっている。土俵が違う。
- この仕事は生徒に伝えることが仕事。この授業は役立つと信頼されるまでが仕事。それができなきゃ経営陣も評価するわけない。
この発言から次のことが読み取れる。CMに出演している講師と、CMの説明に疑義を投げかける側とでは目的が違うのだ。前者は、生徒から役立つと信頼される授業をし、たくさん集客をし、たくさんの仕事をもらって経営陣から評価されることが目的である。後者は、学問的に見た説明の適切さを問うことを目的としている。両者は議論をしているように見えるが、目的が異なるのである。
では、この議論において正しいのはどちらだろうか。客観的に見れば、嘘を教えるほうが正しくないのかもしれない。しかし、物事の正しさは目的を離れて議論することはできない。CMに出演している講師側は、学問的な正しさではなく、「生徒に役立つと信頼されるか(そしていかに集客するか)」を目的としている。その目的においては学問的な正しさよりも生徒へのわかりやすさが優先されるのである。よって、CMに出演している講師の目的においては学問的に正しくないことを教えるのは問題ではない*1*2
そして、(いつものように)「生徒をたくさん集めた、たくさん仕事をもらっている。だから正しい」vs. 「学問的に見て正しくない。嘘を教えている」というそれぞれの前提、目的が共有されていない水掛け論が始まるわけである。さらに、前者の背後には受験生時代にその講師にお世話になったたくさんの元受講生がいる。彼女ら、彼らは、お世話になった感謝の気持ちから(嘘を信じていたと信じたくない認知バイアスが相まって)前者を擁護するわけである。かくして、専門家は多勢に無勢、いつものように机上の空論を振りかざす象牙の塔の住人というレッテルを貼られ、あえなく退散するわけである。
このような議論の展開は、いたるところで見られる。そして多くの場合、CMに出演している講師側は「現場、民衆、大衆」という錦の御旗を手に入れ、専門家側は「非現場、逆賊、朝敵」というレッテルをはられるわけである。おそらく、このCMに出演している講師も、いわゆるポピュリズム政党に所属する政治家も、自覚的にこの議論の進め方をしているのだろう(PHP新書かSB新書から教科書が出ているのかもしれない)。残念なことに、この議論の進め方は無敵に近い。やれやれ。
*1:ここで学問的に正しくない、と筆者は言い切っている。弱形の説明についてはCMに出演している講師の説明に過剰般化、誤りがあることは(専門家から見れば)自明である。ただし、この誤りの指摘は講師側には届かない。そもそも両者の目的が異なり、「正しさ」の次元が異なるからである。
*2:ここで、間違いを教えると生徒の役に立たないからCMに出演している講師側が間違っているのでは、と思うかもしれない。もし「役に立つ」が「説明を聞いて、入試に出題される問題が解けるようになる」という意味なら対話が成立する。誤りを教えることは、生徒の誤答につながり「役に立たない」からである。しかし、講師側の目的が「役に立つの定義は何でもよく、とにかく役に立つと思わせて受講者数を増やすこと」であるなら対話は成立しない。講師側の「役に立つ」の定義が前者であることを切に願う。