「なんでも反対ばかり」という言葉の危険性について
安倍首相が辞任し、菅官房長官が自民党総裁に選ばれ、新たに首相となった。一方で、野党では旧立憲民主党と旧国民民主党が解党され、新立憲民主党と新国民民主党が誕生した。本稿では、「野党」に対して近年よく用いられるようになった「なんでも反対ばかり」という言葉について考えたい。
「なんでも反対ばかり」という言葉には、「野党は対案を出さない。だからダメだ」という文言が続く。つまり、「なんでも反対ばかり」という言葉は、野党を批判するために用いられる。
ここで確認すべきことは、i) 野党は本当になんでも反対ばかりしているのか、ii) 野党は対案を出していないのか、という点である。実際、ニュース番組を視聴していると、野党が与党のスキャンダルを厳しく追求している場面が映されることが多い。そのため、我々もなんとく野党はは批判、反対ばかりしているという印象を持つことが多い。
では、この印象は本当なのだろうか?この点については、以下のニュース記事が参考になる。
詳細な議論は上記の記事に譲り、結論だけ述べたい。客観的なデータを見た場合、i)野党は 反対ばかりしているわけではない、ii) 野党は対案となる法案を提出している、と言える。
我々の野党に対する印象は間違っているようである。この点については、その印象を正せば良い*1。問題は、我々ではなく「与党」が「野党」に対して「批判ばかりで対案を出さない」と批判することである。その目的は何だろうか?
まず、野党が反対しているもの(これを仮に法案とする)は、いくつかの種類に分類されることを確認しよう。
- 野党の党利戦略により反対している法案
- 内容に問題のある法案
1. については、反対することによって与党を追求し、国民にアピールするために反対している法案などが考えられる。2. については、成立することによる国民に対する不利益が大きい法案などが考えられる。
1. については、まさに反対のための反対になっており、好ましくない。この点については、「野党は反対ばかり」という批判は正しいと言える。問題は、2. である。この種の法案が成立した場合、国民にとって不利益となる。よって、この種の法案に反対することは正しいと言える。
では、本題に戻ろう。なぜ、与党は野党を「反対ばかりで対案を出さない」という文言を使って批判するのか。その理由は、1. のタイプの反対をことさらに取り上げることにより、2. のタイプの批判を見えなくするためではないだろうか。野党が反対しているのは反対のための反対であり、与党が提出する法案に問題があるから反対しているのではない、としたいわけである。すると、国民側はどの法案の議論に対しても、「また野党が反対している」、「いつものこと」と感じ、野党が重要な指摘をしていることに気が付かないわけである。このような状態になると、「反対ばかりしている」というレッテルを貼ることにより、与党は利益を得られるのだ。
近年、この「反対ばかりをして対案を出さない」という文言を自覚的に用いることで、自らに対する正当な批判を封じることを狙う与党、権力側の人間が多いように思える。とある地域政党などが、その最たる例であろう。こういった人々の自覚的なレッテル貼りにより、どうも「反対、批判すること自体がダメだ」という風潮が形成されているように思えてならない。
我々は、野党が批判している際は「またか」と思わずに、「党利戦略による反対のための反対」なのか、「本当に問題があるから反対」なのかを考えなければならない(そもそも、このように考えければならないことも問題ではあるが)。また、与党、権力側の人間が発する「反対ばかり、対案がない」という批判が、自らに対する正当な批判を封じるためのレッテル貼りの可能性があることを考えなければならない。嫌な時代になったものである。
*1:もちろん、なぜ我々は「野党は批判ばかりで対案を出さない」という印象を抱いているのか、を明らかにすることは重要である。この印象形成に一役買っているのは、マスコミ(特にテレビ)であることは火を見るより明らかであろう。。