授業料返還運動についてあれこれ
コロナウイルスが世界中に影響を及ぼし始め、もう数ヶ月がたとうとしている。そんな中、多くの大学の学生が中心となり、授業料返還を要望する署名活動が行われている。いくつかの署名活動の文面を読んだが、言いようのない違和感を覚えてしまった。その理由についてあれこれ考える中、なんとかその違和感を言葉にできそうになったので、ここに記録しておく。
本題に入る前に予め断っておく。コロナウイルスの影響により経済的に困窮している学生に一刻も早く援助が行われるべきである。授業料返還の必要性を否定するつもりもない。また、学生たちが主体的に声を上げ、署名活動を行うことを否定するつもりもない(むしろ、素晴らしいことである)。そして、私が目にした署名活動のための文面の執筆者の方を批判するつもりもない。この点、ご容赦願いたい。
私が目にした署名活動のための文面には、次のような言葉が並んでいた。特定の大学の特定の文面を批判する意図は無いので、適宜変更を加えてある。
- 対面式を前提とした授業料に見合うだけの質が、オンライン形式では保証されていない。
対面式の際に得られるはずだった教育の質と、オンライン形式での教育の質の差を指摘し、その差額分の返還を要望する、これが大まか流れである(施設使用料、教育充実費等の問題についてはここでは議論しない)。
繰り返しになるが、このような要望を行うことを批判するつもりはない。しかし、言いようのない違和感を覚えたのである。その理由は、至るところで指摘されていることかもしれないが、教育の場に市場原理が巣食っていることがこの文面に如実に表れているからである。「しかじかの金額を支払ったのだから、それと同等の価値のあるものを要求する」のだ。
もちろん、大学運営が市場の中で行われることであり、それが資本主義社会の進展による当然の帰結であることを否定するつもりはない。また、このような言葉遣いをする学生たちを責めるつもりはない(幼いころからこういう世の中に生きてきた結果である)。
ただ、困っている学生が助けを求めるときでさえ、自然とこういった言葉遣いをすることに言いようのない恐怖、悲しさを感じるのである。いつから支援を求めることに正当化、理由付けが必要になったのだろうか。コロナウイルスによって経済的に困窮している学生に援助、支援を行うことに理由が必要なのだろうか。学生たちにこういう言葉遣いをさせてしまう世の中に生きるものの一人として、深く重い責任を感じる。