〇〇なんて意味がない:苦手なものへの反応の一形態
自分が苦手なものと出会ったときにどのような行動をとるだろうか? 努力して克服する、目を背ける、教えを請う、様々な解答が頭に浮かんだだろう。ここでは、従来は見過ごされがちな、「苦手なものの欠点を指摘する」という行動について考えてみたい。苦手だからといって、別に欠点を指摘する必要はないはずである。なぜ、このような行動をとるのだろうか?
例えば、数学について考えてみよう。数学が苦手な人は多い。筆者自身もこれまで数学が苦手な人にたくさん出会ってきた。筆者の経験上、数学が苦手な人は決まってこう言う。「数学、例えば微積分や虚数なんか学んで何の意味があるのか?」、「数式のような無味乾燥なもので世界の成り立ちも人の心も言葉の意味も記述することはできない」、「数式を使い原子力を操作した成れの果てが福島の原発事故だ」などなど。これらの発言に共通しているのは、数学の欠点の指摘、言い換えれば自分が苦手なものの欠点の指摘である。
なぜこのような発言、行動をするのだろうか? そのために、「苦手」という状態についてもう少し一般化して考えてみよう。「苦手」という状態は、「①本来はできたほうがよいXが②できない」という状態である。このような状態の際、人間がとりうる行動は少なくとも2つある。1つ目は、上記の下線部②の状態を変更することである。具体的に言えば、「できない」を「できる」に変えるために様々な努力を行うことである。
では、もう1つの行動は何であろうか?それは、上記の下線部①の状態を変更することである。ここに、「苦手なものの欠点を指摘する」という人間の行動の謎を解くカギがある。下線部①の状態「できたほうがよいX」を変更するには、Xの欠点をあげつらうことで、「そもそもXなんてできなくてよい」という状態を作ればよい。すると、「できる」状態に変わるために努力する必要がなくなる。数学の例に戻れば、数学の欠点をあげつらうことで数学なんて学ばなくてよいという状態を作ってしまえば、苦手な数学から逃げてもよいことになる。つまり、人は苦手なものの欠点を指摘することで、苦手を克服しなければならないという理由自体を消滅させるのである。これも、ある種の人間の防衛機能の一種なのかもしれない。